学校法人 白根開善学校
名誉理事長 本吉 修二
開善学校の教育は「人はみな善くなろうとしている」という教育理念によって貫かれる。よく言われる頭のよし悪しなど、なんの関係もない。この山の学校に入学したいとやってくる人間は善くなろうとする自覚を十分に持っているのだから、誰かれの別なく山で生きていいのである。私たち教師の仕事や責任は、この子どもたちの善くなろうという意欲をどのように援助していくかということであり、そのための力量をたえず培うことである。こうして開善生徒となって生き抜く決心をした子どもと、また共に学ぶことを決意した教師たちの間では、いかなる困難があろうとも、あらゆる工夫をこらし、生きる努力を続けていくことになる。要するに、子どもと教師たちが一体になって切磋琢磨して善くなろうとしていく学校なのである。だから肩肘いからして子どもに教え込もうとして絶望する必要などないのである。
よく言われるのは、子どもたちは多くの先生たちに囲まれて幸せだということである。少人数教育、小さな学校・学校集団、そして共同生活でも親密な人間関係の存在など、親たちの期待は大きい。それは確かに現在の日本を眺めてみると、ぜいたくな条件ということになろう。しかし私は、それはもちろんのことだが、子どもと先生たちと関係がいささか質的に違うと言いたいのである。どんなに多くの先生に囲まれた環境であっても、先生たちも子どもたちも共に「善く生きようとしているのだよ」と文句なしに信じ合える心の持ち主であり、その上に立っての学校生活であり、人間関係であってこそ値打ちがあるということになる。
教育の歴史を振り返ってみても、一見不十分な教育の環境の中にあっても、子どもたちが生き生きと育っていった事実をみることができる。そのように見てくるとこの山の学校は、教師たちも子どもたちも善く生きようとしているのだから、すぐれた教育の環境になってくるのである。おまけにこれまで不安と若干の不信をもっていた親たちも、「子どもたちも教師たちも真実に善く生きようとしているのだし、私たちもそうでなければならない」と思いはじめて、三者一体となりつつあるのだから、開善教育の未来は希望に満ちたものであると考えている。まだまだ私たち教師の専門家としての能力は不十分、未熟であるとは考えてはいるが、子どもたちを善くしたいという気持ちでは人後に落ちないと自負している。だから諦めなどという言葉は無用ということになる。
迷いに迷った末に、山へたどりついた子どもたちが、とにもかくにも善く生きる道を発見し、やがて山を下りていく。そして思いがけぬ時に立派に社会で生き抜いている知らせを送ってくれる。また、友だちを恋人を、または伴侶と我が子を連れて、この山奥まで訪れてくれる者の多いこと。教師という職業を選んだ幸せをしみじみと感じる時である。